声欄
◆O氏・キクイモの花。
◆朝日新聞9月7日の「声」欄に、「普通なのに、なぜキモイ?」という匿名投書があった。小5の娘さんに対するイジメが、4月の転校時から始まった。「死ね」とも言われたという。その解決について母親が訴えている。
たいへん気になっているが、まだ投書できない。即意見が出ると思ったが、まだない。
タイトルの付け方が、まず問題だと思う。これでは、「普通なのになぜいじめられるのか」というニュアンスになり、普通でないひとはいじめられて当たり前だと、投書氏が考えているように受取れる。話が逸れてしまう。
本題は、今イジメにあっている娘さんをいかに救うかである。
「担任は、名前を出すとイジメが悪化するからと、道徳の授業で一般論として指導してくれた」が、やはり友だちになってくれない。
担任(学校)の生ぬるさが許せない。「相対化」してはいけない。いじめられた生徒は「絶対的」に窓を閉ざされたのだから、被害者の立場から「絶対的」に環境を見ることだ。いじめた生徒を洗いだして、生徒達の前に公けにするのがいいだろう。
もうひとつ、いじめられた生徒に、「これが世の中の縮図だから、ひとりでも闘え、先生が味方だ」と、闘い方を教えてやることだ。最高の教育の機会だ。大人になったら、こんなことばかりではないか。ここからレジスタンスは生れる。
「逃げろ」、「転校しろ」、「ゆっくり休め」など、わかったような御説があるが、そんなことしていたら、一生逃げ回らなければならない。やっつけるしかないのだ。
谷沢永一「いじめを粉砕する9つの法則」の8章に、「自殺する前に、いじめっ子を殺せ」というのがある。ある女流作家は「同じ自殺をするなら、いじめた子の家の玄関で首を吊る。その子の家でなぜ死なない」と言っているそうだ。そのくらいの覚悟で生きろ、と言いたいのだろう。
いじめに遭っている生徒の窓はひとつ。それが「絶対的」に開かない。だから学校はその生徒に「相対的」な世界を開いてやることだ。これに失敗すると、暴発を招きかねない。そんな例はごまんとあるではないか。早く彼女を救え。
◆謡曲「班女」を新内として脚色中。これができれば「隅田川」につながる。それにしても、主人公たる母親は、一生、翻弄され続ける。尼になった果てに、世をはかなんで入水。「隅田川」にさらに運命的な要素を付加させるものになる。
◆テレビで「歌麿」を観る。空気を読めない宰相など、世評パロディがあっておもしろかった。それにしても鈴木杏樹さんの綺麗なこと。数年前「蝉しぐれ」で武家の妻の落剥ぶり演じたが、この時も、ほんとうに美しかった。好きな女優のひとりです。
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